取材・文:コピーライター 吉田千尋
「目が覚めたら、いつもすぐに飛び起きるんだ。じっとしていられなくて」
そう言って豪快に笑う水村喜一郎さん。
「生きていることがうれしくてね。それは、子どもの頃からずっと変わらない」
学校が終われば、迷路のような路地で鬼ごっこ。土手では泥だらけになって転げまわる。やんちゃをしてはゲンコツが飛んできて、それでも懲りずにまた仲間と集まり、夢中になって遊ぶ──。誰にも負けない腕白小僧だった一方で、部屋の中でひとり絵を描くという意外な顔も持っていた水村さん。今回はその原点を探るべく、東京の下町を訪ねます。
水村さんの案内で、墨田区向島の水門近くから散策スタート。「自分を育ててくれた街を歩くのは、やっぱり楽しいね」
隅田水門へとつながる荒川の土手。大いに遊び、語り合った思い出の場所。
浅草から東武スカイツリーラインで4つ目の駅が「鐘ヶ淵(かねがふち)」。水村さんが生まれ育った街です。すぐ近くを流れる荒川では、アシでつくった筏(いかだ)で友達と川下りを試み、見事に転覆したことも。
「みんな、危ない遊びばっかりしてたよね。生きてるのが不思議なくらい」
昭和30年代の初め、荒川には帆掛け船や「ポンポン蒸気」と呼ばれる小型船が行き交っていました。
「あんな船の船長になりたい」
と語っていたのは、ケンカ友達でもあり、無二の親友だった少年。夏のある日、彼は家族とともに北朝鮮へ帰っていったと言います。
その後、二度と会うことが叶わなかった友との思い出を塗りこめている絵が、この「水門」。夕暮れに染まる川面を眺めて夢を語り合っていた少年時代を心に刻むように、水村さんはこの風景を何度か描いています。そこに暮らす人、働く人の息づかいが伝わってくる、深い色合いが印象的です。
「水門」
描かれている隅田水門は大正13(1924)年につくられたもの。荒川の増水時、濁流がすぐ近くの隅田川に流れ込まないように設置された。
昭和44(1969)年に現在の姿となった隅田水門。
「実は、今の水門も描きかけたんだよ。でも情緒がなくてね、つぶしたんだ。絵にならないんだよな」
それでも、水門の前に立つと懐かしさで思わず顔がほころびます。
木造からコンクリート造りになった現代の水門。町工場も煙突も姿を消した。
船舶向けの赤い標識が目立つ現在の造り。「このマークは、絵的にはなかなかいいアクセントになるんだけどね」