画家の一言 ~2022年 秋冬~

「ふりかえってみれば…」 南 正文 没後10年にあたり


「活きる」
不慮の事故のため両腕を失った南正文が、絵を描くことに生きる道を見出し、口に絵筆をとり描いた作品の数々は、彼の死後10年という時を経ても色あせず、いまだに協会のグッズの数々となっています。日本人であることに誇りを持ち、移ろいゆく季節の花々を描くことを得意とした日本画家・南正文を特集し、彼の人となりをぜひ皆様に知っていただければと思います。

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両腕を失くして

小学3年生の春、不慮の事故で両腕を失いました。両親が経営していた製材所で、ベルトコンベアに乗って流れてくる加工済の木材を、横にはねる作業を手伝っていて、ちょっとした油断から、腕をベルトに巻きこまれたのです。毎日、工場で忙しく働く、逞しくカッコイイ父親を憧れと尊敬をこめて眺めていました。父を少しでも手伝いたい、そんな少年の気持ちをくみ、一番危険の少ない仕事を父は与えました。しかしそれは単調な仕事でした。よそごとが頭をよぎり、そして事故が起きてしまいました。
病院のベッドで目を覚まし、両腕が無くなっていることに気がついたときの衝撃は、余人には計り難いことでした。服を着るどころか、物を食べるにも、風呂へ入るにも、トイレを使うにも、人手を借りなければならないのです。

でも、何より少年を絶望させたのは、友だちの変化でした。退院後、近くの公園に懐かしい友だちの姿を見つけて、傍へ寄っていくと、相手はぎょっとした様子で見返し、走り去っていきました。追いかけようとしても、何歩も行かないうちに顔から転倒してしまいます。両腕がないため、バランスがとれなかったのです。
事故から2年後、養護学校への転校を勧められます。体に何らかの障がいを持つ子らが通う学校は、皆親切で、助け合って過ごすことができました。両親も常に南のことを最優先に考え、生活上は不自由のない暮らしでしたが、彼は自分の生き方をさぐって苦しんでいました。「京都に、両腕のない尼さんがいて、口で書や絵を描き、人々の幸せのために尽くされている。一度訪ねてみたら」と近所の人が勧めてくれたのは、南が中学2年生のときでした。その人の名は、大石順教と言いました。

大石順教尼との出会い


大石順教尼に絵を習う南正文

大石順教尼との出会いは、彼が中学2年生のときでした。ただし、事故で2年の空白があるので、実際には彼は高校生の年齢でした。将来への不安を語り、助言を求める南を順教尼は優しく受けとめ、「弟子にしてあげよう。絵を描きなはれ。ただし条件がある」と。家人の助けなしに、一人で通ってきなさいというのです。片道3時間、5回の乗り換えがあります。両腕のない人間には過酷な条件でした。家を出るとき、胸ポケットへお母さんにお金を入れてもらい、駅へ着くたびに、勇気を振るって見知らぬ人に声をかけ、切符を買ってくださいと頼むのです。驚いて逃げる人、睨みつける人、乗り換え場所までついて来てくれる人、反応はさまざまでした。世間にはいろいろな人がいる。そのことをたった半日で体験して学びました。親切な人、そうでない人、その中から自分はどんな人間になりたいか。急に視界がひらける心地がしました。

私が絵を描くということ

そうして順教尼のもとで、心を空にして学びました。口で描くこと一つにしても、最初はスケッチから、鉛筆をくわえて絵を描きました。唾液が鉛筆を伝ってノートにしたたる。鉛筆の塗料が口の中で溶けて気分が悪くなる。歯が痛くなる。肩も凝る。それでも弱音を吐かず、初めて鶏頭の花の絵が描けたとき、自分ながら拙い絵でしたが、順教尼にほめられ、絵のできばえとは別のところで自信になりました。絵を描くことが別に好きではなかった少年が、絵を描くのが大好きになっていく第一歩でした。
「体に障がいがあっても、心にまで障がいを持ってはいけない」
「常に自分を支えてくれる人たちへの、感謝を忘れるな」
「両手のないことがマイナスなのではない。心の持ち方で、一つの出来事が幸せになったり、不幸になったりする」
などなど人間の心の位置を示唆する訓示を、順教尼は折に触れて口にしました。そしてそれらは南の体内を巡って、人の心を明るませ、和ませる絵へと昇華しました。明るくきれいな絵を描く、それが自分を支えてくれる世間への感謝であり、使命である、そう思って絵を描き続けました。南の絵には花が多い。それは順教尼のもとで学んだからかもしれません。

師を超える/明日に向けて

順教尼から学んだ人間としての心の持ちようを真摯に守り、明るくきれいな絵を描き続ける日々でしたが、本当にそれだけでよいのだろうか。いつからかそんな自問が南の心の中に芽吹き、うごめき出しました。それまで大切にしてきた師の言葉の数々を押しのけ、「人の描けない絵を描きなさい」という師のひと言だけが深くたちはだかって彼を苦しめるようになりました。人の描けない絵とは、「わての真似ではなく、わてを超えなはれ」という意味だったのです。師とは、敬い従うだけの存在ではない。超えるべき存在でもあるのです。師を否定するのではなく、師を根っことし、肥やしとして、その先へ進まなくてはならないのです。そして、自分を抑えつけてきた束縛を脱ぎ捨て、ありのままの自分を受け入れ、絵の中で自由に遊び始めたのです。ひたむきにカンバスに向かい、素直な心からのみ生まれるやさしい絵が生まれてきたのです。


アトリエにて(部屋には日本絵具が並ぶ)

協会の活動を通して

大石順教尼は、世界身体障害芸術家協会(口と足で描く芸術家協会前身)の第1号会員です。そのこともあって南も協会へ参加し、1975年に会員となりました。協会での彼の活動は、いまだに数々のグッズとなっていることを見ても明らかですが、彼は生前、
「私たちは、この協会があることで安心して絵を描き、生活させてもらっています」
と述べています。
長年絵を描き続け、いろいろな葛藤はありましたが、晩年は、
「手があるのと無いのでは、やはりハンディが大きいものです。背伸びもしましたが、比較するとつらくなります。しかし、ありのままの自分を受け入れた時、自分しかできない絵、生き方をしようと思った時、心が軽くなりました。大きな絵が芸術性は高いのか?小さい絵はダメなのか?悩みましたが、小さな絵でも大作を描く気持ちであれば同じではないのかと気づきました。少しでもいい絵を描き、喜んでもらえる作品を残していきたい。皆さんにしていただくだけでなく、少しでもできることをやっていきたいと思っています」
という言葉を残しました。


「繁栄の桜」

この絵は、2011年に発生した東日本大震災直後から描き始めました。奇しくも南が最後に手がけた作品となりました。彼がどんな思いでこの作品を手がけたか、今となっては知るすべはありませんが、桜に「春を待ち焦がれる思い」と「生命の儚さ」、そしてわずかに顔を出す龍に「明日への希望」を託したのかもしれません。一度は完成しましたが、後に、修正したいとの申し出を受けました。しかし、それはかないませんでした。60号キャンバス2枚の、彼にとっては未完成の大作。

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