画家のアトリエ ~インタビュー、ニュースから画家の素顔をご紹介~

生きるよろこび 牧野文幸

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Vol.1「生きること」と「描くこと」

高校2年生の夏、頚椎を損傷

昭和41年1月、元気な産声を上げて生まれた牧野さん。小学生の頃は剣道に励み、中学生になると水泳部に入部。書道や楽器の演奏も行い、高校は水泳部のある学校に進学。文武両道、とても充実した学生生活を送っていました。しかし、高校2年生の夏、水泳の練習中にプールの底に頭を打ち、頚椎を損傷。首から下の感覚麻痺、運動能力の喪失、当初は自立呼吸すら難しいかもしれないと告げられました。

一瞬にして、首から下全身マヒの障がいを負ってしまった牧野さんですが、その辛い思いをすぐに真正面から受け入れ、リハビリに取り組む姿勢を見せます。主治医やリハビリの先生に励まされ、残った身体の機能をフルに使って生きることの訓練に果敢にチャレンジしました。まずは、自立呼吸をし、呼吸器を外すこと。時間がかかることでしたが、数ヶ月後には自身の声を取り戻すまでに快復しました。次は、ベッドを起こすこと。筋肉を絞って下半身の血流を調整する機能も失っていたため、身体を少しでも起こすとたちまち血圧が下がり失神してしまいました。これに耐える訓練を行い、45度でしたが初めてベッドを起こすことに成功。久しぶりに天井ではない景色を見ることができた時の喜びは、次なるリハビリへのモチベーションに繋がったそうです。

事故に遭う前は、ギターなどを家で良く演奏していた。

それからの訓練の成果は目覚ましく、遂にはベルトで体躯を締めながらも車椅子に乗ることができるようになりました。すると、通っていた高校の校長先生から「通学が可能になれば元の高校に復学できる」と知らせが。そのことが牧野さんの次なる目標となり、板の上に腕をのせてもらい、左右に滑らす訓練から始め、とうとう手にマジックを括り付けて文字が書けるように。一年半の治療とリハビリで、諦めていた元の天城高校に復学することができました。学校では、教科書も出せず、ページもめくれませんでしたが、家族はもとより先生や級友たちの協力により、ついに、念願だった普通高校を卒業することができたのです。

「校長先生の肖像画」
校長先生始め、諸先生方や級友たちの協力で復学、卒業が叶う。

高校卒業の時の写真
牧野さんがどんな存在であったか分かります

障がい画家として歩むキッカケとなったもの

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