画家のアトリエ ~インタビュー、ニュースから画家の素顔をご紹介~

  • 青春の激しさと、人生の温もり

    Vol.1 まもなく個展開催! 今見つめるもの、思うこと

    Vol.2 協会展開催! そして美術館の第2期、スタート

    Vol.3 画家としての原点へ。生まれ育った下町を歩く

    Vol.4 心がある。友がいる。あの頃のままの少年たち

    Vol.5 海辺の町、山里のアトリエ。鴨川で出会った風景とは
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    生きるよろこび 牧野文幸

青春の激しさと、人生の温もり

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雨の日の家出。「絵描きで生きていく」

絵を描く話はほとんどしなくても、その頃の水村さんの思いを知っていたのが吉田さん。中学生の頃のある出来事が今でも忘れられないと語ります。
「雨の夜、ずぶぬれになった水村がやってきた。で、いきなり 『俺はもう家を出る』 って言うんだ」
とび職の親方だった水村さんの父親は、絵を描くことを認めていませんでした。自分の仕事を継がせたいがために、水村さんが事故で両腕を失ってもなお「現場監督は人を動かせればいい」と力説。ときには理不尽な暴力をふるうことも。とうとう耐え切れずに家を飛び出したこの夜、水村さんが絞り出した言葉は、
「俺はこれから、似顔絵描きをしながら食っていく。東京だと見つかるから、関西まで行けるだけの金を貸してほしい」

とび職だった父親は亡くなったが、当時付き合いのあった建材店はまだ残る。店主は懐かしそうに水村さんと語り合っていた。
思いつめた様子の親友のために、吉田さんは一肌脱ごうと決心します。しかし翌日、水村さんの母親がたずねてきて説得され、家に戻ることに。再び父親との葛藤を抱えながら絵筆を握る日々が始まります。
「レモンのある風景」
高校3年生のときの作品。「いいでしょ。これ、最高だよ」と吉田さん。将来について悩みながらも、ひたむきに情熱を傾けて描いていた。


仲間たちと画集を眺める。かつての遊び仲間は、画家・水村喜一郎を誰よりも支える後援者になった。
「自分に何ができるのか。どう生きていけばいいのか」
と、自問自答を繰り返していた水村さん。大学に進学、そして卒業後は会社員となったもの、やはり絵を描きたいという想いを封じ込めることができず、20代半ばにして会社をやめ、ついに絵画の道へ。

「これは本気だと思った」と、吉田さん。すでに展覧会に入選するなど実績のあった水村さんをさらに後押しするため、後藤さんたちとともに絵画の運搬や移動の際の運転手としてサポートし続けます。そして恩師である美術界の重鎮、庫田(くらた)てつ・大野五郎・寺田政明・洲之内徹先生方との出会い。ひたすら描き、学び続け、ようやく画家としてやっていけるかもしれないと思い始めたのは、30歳を過ぎた頃でした。その後、アトリエを構え、2013年には長野県に「水村喜一郎美術館」を開設するのです。

「しつこくて頑固だから、こいつ」と、吉田さん。
「サッカーでも、こんなことがあった。雨の日の試合中に水村が転んで、耳や目にいっぱい泥が入ったんだ。休憩のときに俺たちが急いで洗ったんだけど、よほど悔しかったのか、それからは絶対に転ぶことはなかった。ただの一度も」 そして小声でぼそっと、「いい男だよ」と付け加えました。

「何言ってんだよ。吉田は俺の絵のことなんて何もわかってないくせに」 と水村さん。すると後藤さんが、「そうだな。悪いけど、美的感覚は俺のほうがある。俺がこの絵がいいって言ったら、『俺も』って言うだけだからな、吉田は」と胸を張ります。
「なんだよ、俺だってちゃんとわかってるよ。全部好きな絵だよ!」

あの頃のまま、いつまでも会話が尽きない皆さん。少年の頃、そして青春時代の喜び、悲しみ、悔しさ、温かさ……。すべてを包みこむ故郷でのひとときは、夜が更けるまで続きました。

「自画像」
高校時代の作品。最初は誰の顔ということもなく描いていたが、吉田さんが「お前に似てるよ」と言ったことで“自画像”になった。
「吊るされた鶏」
「初めて見たときはショックを受けた」という後藤さん。これも高校時代に描いたもので、もっとも強烈な印象を残す作品のひとつ。

現在、水村喜一郎美術館で開催されている「水村喜一郎展」では、10代の頃の絵画も展示。当時の激しい思いをぶつけるように描かれている鮮烈な作品の数々に出会えます。
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最終回は、30代で構えた小さなアトリエがある、千葉県・鴨川を訪ねます。
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