画家のアトリエ ~インタビュー、ニュースから画家の素顔をご紹介~

生きるよろこび 牧野文幸

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書

「道」という言葉からイメージされるストイックな匂いは、私の書いたものの中には存在していない。一つの進路を定め、ひたすらに道(みち)を極めんとする類の厳しさを、自身の書には求めていない。自由気ままに書いているのである。私という人間には、ある程度の技術が身につくと、ついつい達人にでもなったかのような錯覚に陥っていい気になってしまう悪いクセがあるのだ。そこで、真の達人の残したものに触れることで、空に向かって伸びかかった天狗の鼻を、ポキッと折っていただくのである。先達の筆跡から、筆使い・筆さばき等々を読み取り、それを忠実に再現することを繰り返す。そして窮屈な手本から解き放れた時、筆は思うままに走りまわって、「道」とは違った次元の世界へと導いてくれる。「書道」から解放されたところに作品が出来上がってくるのであるから、書道家ではなく書家なのである。

いわゆる「達磨不識」から引用された言葉である。
「不識」という言葉については様々な解釈ができるだろうが、私は、次の二つの意味をもってこの言葉を自身の道標としている。ひとつは、「知っている」こと・「行ってきた」ことに偏重しないようにするのが大切であるということ。「知っている」ことを有効活用して何をするのか、そして「行ってきた」ことを踏まえてこれからどのように行動するのか、要するに「過去」より「未来」なのである。
もうひとつは、「知る必要もない」ということ。人の評価や他人の噂話など知る必要もない。しっかりとした自己が確立されていれば「そんなの関係ねぇ」と泰然としていられるはずである。
まとめて言うならば、「それ以上でもそれ以下でもない自分」を正しく認識することが大事なのだということである。

「不識」

様々な字体の「馬」という文字を九つ書いて、「馬九(うまく)」と「上手く」の掛け言葉を書の作品にした。一般的な「書道」の概念にとらわれず、自分らしい自由な発想でチャレンジした一点で、まずまず面白いものができたように思っている。

「馬九行く」

上の白文字を左右反転すると下の黒文字(左馬)と字体が一致。

「自分の歩む道は自分で照らす」
師が亡くなった後には誰に(何に)頼ったらいいのかと嘆いている弟子に、入滅間近の釈迦が諭した最後の教えといわれている。
自分自身を灯明として、自らの進むべき道を照らし出せということには共感を覚える。もちろん、周りからの助けがなければ生きていけないということは周知の事実に違いない。しかし、最後の最後に決めるのは、紛れもなく自分自身なのである。自身の中にゆるぎない灯明をともすことができるならば、たとえ一時的に方向を誤ったとしても、正しい道へと進路をとり直すことができるはずである。

「自灯明」

「客散青天月山空碧水流」

「旅人が散ってしまい、青天に月が昇る。山はがらんとしてしまい、青く澄んだ水が流れている」
「世の中がどのように変わろうとも、自分の信念は変わることなくそこにある」そういった思いを連想させてくれる語句。

「龍」

遊び心のある書をかけるようにと、自由な運筆で書いたところからできたもの。

「絆・それでも生きている」

2013年震災支援チャリティ展のポスター用に製作

「花は自然のままに咲き、散ってゆく。その姿を見て、人は美しさや潔さを感じている。ことさら自己主張は必要ではなく、無心での行動が一番自然で美しい」
表現者として、自身の作品にある種のメッセージを込めるのは当たり前のことといえる。
しかし、それを通り越して、見た人がどのような感想を持つだろうかと気にするあまりに、媚を売っているようなものになってしまってはまさに自意識過剰・自己顕示欲の権化である。もちろん、自分の作品の評価は気になるし、良い値段で売ってほしいと言われれば嬉しいに決まっている。ただ、それは作品が出来上がってからの話であり、制作の最中にそのようなことが頭の中を占拠することがあってはならない。
と、ここまでは理想論、ふがいないことに実際には、不埒な思いが行ったり来たり、「黙って咲き 黙って散ってゆく」の境地に辿りつけるのはいつになることやら……

「花は黙って咲き黙って散っていく」

作品に込めたものをことさら説明することは、見る人の感受性を邪魔することになりかねない。が、個展開催に際し図録をつくるにあたり、それらを明らかにすることも作家の責任かもしれないと考え、書くに至った。と牧野本人が書いたものを作品とともに記しました。

作品集には、ここでご紹介した作品を含めて絵画94点、書28点を掲載しております。

「生きる喜びを」語りかけ続けた講演会