画家の一言 ~2026年 春夏~

協会70周年を迎えて

アルヌルフ エイリッヒ シュテッグマン
Arnulf Erich Stegmann(ドイツ)

1912年3月生まれ。2歳の時に脊髄性マヒ(ポリオ)にかかり両手両腕の自由を失った。教師たちは彼の恵まれた芸術的才能に気付き、勉学を促した。油彩、水彩ともに技術は高度な水準に至った。また、石にペンで描くこと、丸のみ細工、リノリウム彫り、版画、彫刻などは、全て口にくわえた道具で制作した。生涯を通じて展覧会活動は目覚しいものがあり、作品はドイツ・ミュンヘン・シンシナティ美術館をはじめ、個人のコレクション、ギャラリーなどに所蔵されている。1956年に協会を創設、終身初代会長であった。1984年9月没。


「モンマルトル(パリ)」 A.E.シュテッグマン 画

始まりは両手の不自由な一人のドイツ人から

ドイツ人のA.E.シュテッグマンはポリオに罹患し両手が不自由でした。当時、きちんと働ける場所もなく、路傍で、器用に口に絵筆をくわえ似顔絵を描いて生活の一助にしていました。噂を聞きつけ、彼のもとに、様々な事情で両手の自由を失った障がい者たちが集まり、見よう見まねで絵筆を動かし、絵を描くようになっていきました。そしてそんな障がい者たちを、何とか支援したいと思う仲間たちも集まってきました。1956年、「口と足で描く芸術家協会」がリヒテンシュタイン公国に設立されました。障がい画家は口や足に絵筆を携え、絵を描きます。その絵をポストカードに複製し皆様にお買い上げいただく、そんな一歩から協会は始まりました。シュテッグマンは初代会長となり、その後組織として体系化されていきます。シュテッグマンは、自国だけではなく、世界中、あらゆる国の両手の不自由な障がい者に活躍の場が提供されることを願います。その後、活動は、まずアフリカ大陸へ広がっていきます。協会を設立した仲間たちは、世界中の両手の自由を失った障がい者のために、この活動を世界へと広げるべく尽力します。

日本での活動は1961年から~たくさんの苦労もしました~

1961年、日本で初めて「口と足で描いた世界の美術展」を東京で開催します。シュテッグマンの友人、やはりドイツ人のベルトホルト・オールメルが来日し、日本での活動を広めていきます。両手の不自由な障がい者の自立のため、まずは協会の活動内容を日本の人々に知ってもらい、協会へのサポートを呼びかけていきます。

こんなこともやってみました

「口と足で描く芸術家協会」とはどういった団体なのか、きちんとした組織であることを日本の皆様に知ってもらうため、オールメルは、当時のNHK番組「私の秘密」にも出演しました。珍しい体験や特別な才能など、ある秘密を持った一般人が登場し、その秘密を当てるクイズ番組ですが、オールメルは、協会に所属している口や足で絵を描く人たちを紹介、そして協会の存在を多くの人に知ってもらうために奔走しました。
それと並行して、実際に両手が不自由で支援を必要としている日本の障がい者に、協会の意義を伝え、ぜひ協会に参加してもらい、一緒に活動しようという呼びかけも行います。まずは両手の不自由な障がい者を探し出すことから始まりますが、ドイツから遠く離れた日本、もちろんオールメルは日本語を話すこともできません。通訳を兼ねて一緒に活動してくれる日本人スタッフと、活動をともに担ってくれる障がい者を探し歩きます。

まさに一期一会

日本での会員第1号は大石順教尼です。彼女は1888年生まれ。4歳で京舞の世界に入り、11歳で名取りを許されますが、17歳の時、養父に両腕を切り落とされてしまいます。19歳から旅回りの一座に入り、カナリアがくちばしで雛を育てる姿に教えられ口筆を覚えていきます。無学無教養を恥じて独学で字と絵を習得。みずから両手が無い身でありながら、障がい者の社会復帰に半生を捧げた人です。彼女の境遇は日本国内で既に知られていました。この時はかなり高齢で、字も絵も確かな技術を持っていました。

大石順教尼に絵を習う南正文

「活きる」 南 正文 画 
天理市の幾坂池の一本桜
その順教尼の最後の弟子と言われたのが、後に協会の会員となり、長い間牽引してくれた南正文です。彼は1951年生まれ。小学3年生の時、製材業を営む父を手伝い、機械のベルトに巻き込まれて両腕を失いました。14歳の時、口筆画家大石順教尼に師事、口での描画と生き方の修行を始めました。見る人の心を打つ美しい日本画を、生涯で約900点制作し、今なお愛され続けています。絵を描くだけでなく、順教尼に施されたように、南自身もみずからの技術を惜しみなく指導しました。その一人、難病に冒された協会画家小川良治のもとへ足繁く通い、日本画の手ほどきを進んで引き受けていました。

オールメルは、人づてに、両手が不自由な人がいると聞けば、その人に会いに行き、協会の意義を伝え歩きます。
そして出会ったのが木村浩子です。彼女は1937年生まれ。1歳になった直後の高熱のために脳性小児マヒとなり、言語障がい、両手右足硬直の重度障がい者となりました。長い施設での生活を経て、自立を目指し、わずかに動く左足で文字を独学し、習得。可能性を求めて足での短歌、編み物、水彩画などに次々と挑戦し、絵画に生きる道を見出しました。


純真なわらべの絵 木村 浩子 画
思えば60数年前、まだ日本は戦後の大変なときでした。ドイツからオールメル氏が、「口と足で描く画家を」と訪ねて来られたころは、まだ日本では福祉という言葉さえ使われていないときでした。家族もいない私は、友人の紹介でオールメル氏と通訳の日本人スタッフに出会いました。左足指のみでの生活で、全く自己流の絵を描いていた私で、人から認められるとは思ってもみないことでした。絵画について学んだこともない私は、ただただ自分だけの感覚で描き続け今日に至ります。一人で歩くことも座ることもできない私が、唯一動かせるのは左足先だけです。そのため、風景などのスケッチはできません。でも、内面にある「私の世界」は描けます。土に一番近い野の草花や、人の優しさを感じさせる童画、描く素材はたくさんあります。重度障がい者の私が、一人の画家として認められ、個展を開き、多くの人々と出会いました。この幸せは、ひとえにオールメル氏との出会いがあったからです。この感謝の気持ちは一生忘れません。これからも芸術を目指す手の使えない若い人たちのために、私にできることをしていきたいと思っています。(木村浩子談)

水村喜一郎が描いたオールメル氏の肖像画
もう一人、巡り会ったのは水村喜一郎です。彼は1946年生まれ。9歳のときに高圧線で感電し両腕を肩から失います。不自由さを伴いながらも、先生や友人たちの温かい応援を受けながら、手の代わりに口と足を使って生活の全てにわたり何事にも果敢に挑み、自助の精神を貫き通しています。小さいころから画家を夢見ており、事故後すぐ口に筆をとり、絵を描き始めます。

「運河の鉄橋 夕景」 2023年 水村 喜一郎 画
この協会に参加したのは、少年時代でした。17歳のころだったと思います。初めは奨学金給費生でした。病気やけが、あるいは生まれつき両手の使えない人たちが世界に多くいることを知りました。そして、身体の使える機能、つまり口か、あるいは足で絵を描いている画家たちを知りました。僕も奨学生になり、絵やその他さまざまな勉強ができました。そしてその後、協会の会員となり、将来への不安と欠乏から解放されました。
協会は、障がい者の相互扶助、自立を目指しています。自分たちの描いた絵で、自分たちを助ける。自立、この精神は尊いと思います。ただ援助だけを受けるのとは違い、生活実感があります。この中から、僕は宿命に立ち向かうことを学びました。
子どものころから絵を描くのが好きで、ただ好きというだけでここまできてしまいましたが、何でも描きたいわけではなく、描きたいものが初めから決まっていたように今更ながら思います。下町の長屋や露地、そして掘割や工場、自分が見て愛してきた自分の心のふるさとを自分なりに描いてきました。旅に出ても、やはり自然にわがふるさとと同じような匂いのする、そこが外国でも、淋しげな懐かしい風景に足が向いてしまいます。自分の大好きな絵を描いて、画家として生きてこられて幸せです。やはり協会との出会いは、僕にとって大きなターニングポイントだったと思います。(水村喜一郎談)

「日本」での活動を通して

日本では、学校や会社、そして個人の皆様と、様々な方々に、春夏・秋冬の年2回のカタログを通して、世界中の障がい画家が描いた原画からさまざまな商品を複製し、ご購入いただくというスタイルを確立していきました。諸外国ではポストカードが主ですが、日本では、皆様に喜んでいただけそうな商品を多数製作して、皆様に選んでいただいております。
そして時は流れ、オールメルも亡くなり、同じ志のもと、一緒に一時代を築いた日本人障がい画家も既に何人か亡くなりました。しかし、また新たな障がい画家へとバトンは繋がれています。

「SELF-HELP,NOT CHARITY-慈善ではなく、自立-」を掲げて

「誰一人取り残さない」は、2015年に国連で採択されたSDGs(持続可能な開発目標)の核となる理念です。格差や貧困をなくし、最も脆弱な立場にある人々が平等に人権と豊かさを享受できる社会を目指すための誓いです。協会は「SELF-HELP,NOT CHARITY-慈善ではなく、自立-」を掲げ、一時的な施しよりも、自身の力で働き、経済的・精神的に自立する生活を目指しています。皆様にはこの活動を知っていただき、もちろん支援には感謝しつつ、このような活動をしている障がい画家が世界中にいることに目を向けていただければと思います。そしてこの活動がこれからも長く続けられるよう見守っていただけることを、障がい画家一同願っております。


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